
福田清次郎(~1925,65才)は日本の関西出身である。日本での生計が立てにくかったため、家族を連れて台湾に渡り、新たな生活を切り開いた。妻の弟の助言を得て、妻(福田サク)と共に基隆河の明治橋のほとりに店を構え、店名を「蜆茶屋」(台北円山町128番地)と名付けた。これは個室を備え、食事ができる料理店であった。

『台湾日日新報』の報道によると、蜆茶屋は大正2年(1913)に創業した。この料理店は景色の極めて良い場所に位置しており、台湾神社に近接しているだけでなく、近くには円山公園、円山動物園などの名所もあった。立地は少し離れた場所であったが、客足は絶えることなく、そのため商売は繁盛し、常連客のみを受け入れ、見知らぬ客は断るほどになった。福田家もこれにより急速に富を蓄積することができた。蜆茶屋の経営が順調に伸びていた矢先、福田清次郎は次第に引退の念を抱き始め、店を閉めて日本へ戻り、余生を安らかに過ごしたいと考えるようになった。夫婦はこの件でしばしば意見が対立した。

大正14年(1925) 9月15日、台湾を台風が襲った。福田家はすでに避難の準備を整えていたが、福田清次郎は自宅の安否を案じ、基隆川の川岸へ下りて、家が洪水に浸水しないかを確認した。しかし、足を滑らせて濁流に巻き込まれ、命を落とした。翌日、遺体が発見された時には、7キロ以上も下流まで流されていた。

福田清次郎の死後、妻が店主を引き継ぎ、資料によると、「蜆茶屋」は昭和14年(1939)まで営業していた記録が残っている。昭和15年(1940)、清次郎の妻が亡くなると、娘(福田キヨ)が隣接する円山町123番地の土地と建物を買い取った。ここは、故・大稻埕の茶商・陳朝駿の旧宅である「円山別荘」であり、現在の台北市立三級史跡「台北故事館」にあたる。福田家の子孫の証言によると、この美しい建物は陳朝駿がドイツ人建築家に依頼して設計させたものであり、ネット上で噂されているような総督府技手・近藤十郎の手によるものではない。

福田清次郎は、極貧の生活から一躍成功を収めるまで、その人生は多くの人々が羨むようなものだったに違いない。しかし、彼は台風の影響で足を滑らせて溺死したものであり、決して自ら川に身を投じて自殺したわけではない。ここに筆を執り、彼の名誉を回復し、事実を明らかにしたい。














